サプライチェーンマネジメント(SCM)人材育成はなぜ難しいのか? 味の素の事例から考える、必要なスキルと教育方法
サプライチェーンマネジメント(SCM)の重要性は、多くの企業で共有されています。ところが、人材育成の話になると、研修メニューだけが増えて、現場で使える人が増えないまま止まることが少なくありません。
うまくいく企業は、部門別の知識をばらばらに増やすのではなく、全体最適、データ活用、変革推進を一体で育てています。背景にあるのは、SCMを物流や購買の一部として教えてしまい、経営やデータ活用とのつながりを薄く見てしまうことです。
この記事では味の素のDX事例と公的調査を手がかりに、SCM人材育成の本当の課題と、今優先したいスキル、教育方法を整理し、自社で何から整えるべきかが見える形にまとめます。
なぜSCM人材育成は後回しになりやすいのか?
日本では横断型の学びがまだ少ない
SCMは、調達、生産、在庫、物流、販売までをつなげて全体最適を考える仕事です。にもかかわらず、国土交通省の調査では、日本の大学には物流関連の科目自体は多くあるものの、包括的で横断的なカリキュラムを提供している大学はごく少数だと整理されています。
海外では、サプライチェーン全体を専門に扱うコースや、社会人の学び直し、企業が教育内容に助言する仕組みが比較的整っていますが、日本ではまだ断片的です。1
この差は、企業の現場にもそのまま表れます。購買は購買、生産は生産、物流は物流という形で学びが分かれていると、現場の担当者は自部門の改善には強くなっても、在庫、欠品、リードタイム(作って届けるまでの時間)、利益率のつながりを一つの絵として捉えにくくなります。SCM人材育成が難しい第一の理由は、教える単位が細かすぎることです。
現場の改善と経営の言葉がつながりにくい
もう一つの壁は、育成の成果を何で測るかが曖昧になりやすいことです。味の素が2021年に示したSCMの中期計画では、経営課題として在庫水準の適正化を明確に置き、SCM小委員会のKPI(重要指標)に棚卸資産回転日数とコストダウン額を据えました。
棚卸資産回転日数は、在庫が何日分たまっているかを見る指標です。味の素は2019年度のグループ平均を約93日と示し、2025年度の目標を70日に設定しています。2
ここで大事なのは、KPIそのものよりも設計の考え方です。人材育成の議論を、受講人数や研修時間だけで終わらせず、在庫、コスト、リードタイムの改善と結び付けている点に意味があります。SCM人材育成は教育部門だけのテーマではなく、経営指標のテーマでもあると捉え直さないと、研修は増えても事業への効果が見えません。
ここまでで、育成が進みにくい背景が見えてきました。次に、では何を育てるべきかを見ます。
まず何を育てるべきか?
全体最適で業務を設計する力
味の素のSCM計画を見ると、単に在庫を減らす話ではなく、モノと情報の流れを見える化し、全体視点で業務を設計し、資本効率を重視したKPI(重要指標)を置き、データに基づく業務に変えていく流れが示されています。
必要なのは、倉庫や需給計画の知識だけではありません。どこで在庫が増え、どこで情報が切れ、どの意思決定が全体最適を崩しているかを捉える力です。2
この力がないと、局所最適が起きます。たとえば欠品を恐れて在庫を積み増す、生産効率を優先してまとめ生産を増やす、営業予測の前提が曖昧なまま需給計画を回す、といった判断です。
それぞれ単独では合理的でも、サプライチェーン全体では在庫増や廃棄、納期遅れにつながります。SCM人材にまず必要なのは、部門知識を足し算することではなく、全体を一つの流れとして設計できる視点です。
データを使って判断し、部門を動かす力
必要なスキルをもう少し実務に寄せて言い換えると、優先順位は次の三つに絞れます。
- 全体最適の設計力。調達から販売までをつなげて、どこが詰まりやすいかを見抜く力です。
- 分析と予測の力。需要予測、在庫分析、異常値の把握、意思決定の前提整理に使います。
- 変革を進める力。営業、生産、物流、ITのあいだで前提をそろえ、運用を変える力です。
世界経済フォーラムの2025年版レポートでも、今後重要性が高まるスキルとして、AIとビッグデータ、分析的思考、技術リテラシー、変化への強さ、リーダーシップなどが挙げられています。SCMに引き直すと、データを読む人だけでは足りず、分析結果をもとに現場の意思決定を変えられる人が要るということです。3
ここでスキルの数を増やしすぎないことも重要です。覚えるべき名前を増やすより、この三つにまとめた方が育成設計はずっとしやすくなります。
教育方法はどう変えるべきか?
座学だけで終わらせない
教育方法で最も外しやすいのは、知識の説明で満足してしまうことです。キヤノンITソリューションズと東京理科大学の連携事例では、SCM特論を座学、校外研修、実験の三部構成で行い、需要予測ソリューションや計画系システム構築プロジェクトも含めて学ぶ設計にしていました。受講した学生からは、システムと人の融合の重要性や、属人化した業務を標準化する必要性が理解できたという声が紹介されています。4
この事例が示すのは、SCM教育では理論だけでも、ツール研修だけでも不十分だということです。現場で使うデータ、実際の制約、部門間のずれまで含めて触れないと、学びが実務に移りません。教育方法の中心は、講義ではなく、現場課題を題材にした実践に置くべきです。
たとえば在庫偏在、需要予測のずれ、SKU(品目の最小管理単位)の多さ、拠点間の情報分断といった一つの問題を選び、現場で使う数字を使って考えさせるだけでも、学習の質は大きく変わります。
役割別に段階を分ける
味の素のDX人材育成は、この点でも参考になります。2020年度に開始したビジネスDX人材育成では、初級、中級、上級の教育プログラムを設け、2020年から2023年の4年間で従業員の80%以上が受講し、約2,200名が認定を取得しました。
2024年からは、ノーコード、ローコード(少ないコードでアプリを作る手法)、プログラミング、データ分析、生成AI活用まで研修範囲を広げています。5
注目したいのは、全員に同じ専門教育を施していないことです。全社員向けの基礎リテラシー、その上にビジネスDX人材、さらにシステム開発者やデータサイエンティストという形で、役割ごとに深さを変える設計になっています。
SCMでも同じです。需給計画を担う人、現場改善を担う人、データ基盤を支える人に、同じ教材を同じ深さで配っても効果は薄くなります。
学ぶ内容を分けるのではなく、同じ課題に対して求めるレベルを分ける。この発想が教育方法を変えます。
味の素の事例から学ぶ
KPIと育成を切り離さない
味の素の事例を一本の線でつなぐと、見えてくるのは人材育成を事業変革の後ろに置いていないことです。SCM小委員会で在庫とコストのKPI(重要指標)を置き、データマネジメント基盤を整え、DX人材育成を並行で進める。
さらに2024年度からは、日本国内の食品事業のサプライチェーンに関わる計画、実績データと各種マスタをワンストップで利活用できる環境を整え、従来把握が難しかった在庫量の推計や生産計画の最適化に取り組んでいます。5
これは、教育を先にしてから活用先を探す順番ではありません。先に解くべき経営課題があり、その課題を解くために必要なデータ基盤と人材要件を定めています。SCM人材育成の議論が進まない企業では、この順番が逆になりがちです。
まず研修会社を探し、次に受講者を集め、最後に何が改善したのかを考える。これでは成果が見えにくくて当然です。先にKPI、次に役割、その後に教育という順番に戻すだけでも、設計はかなり整理されます。
DXチームだけに任せない
もう一つ学べるのは、デジタルだけで現場課題は解けないという前提です。味の素は、現場のオペレーションの課題はデジタルだけでは解決できないため、業務改善手法DMAIC(課題定義から改善定着までを進める手順)を使う、オペレーション改善を進めるOE活動の推進チームとDX推進チームが協働すると明記しています。5 これは地味ですが、非常に大事です。
SCMの現場では、需要予測の精度だけでなく、例外処理、会議の進め方、入力ルール、部門間の責任分担が結果を左右します。どれだけ高度な分析環境を整えても、前提条件が部門ごとに違えば、意思決定は変わりません。
だから必要なのは、分析人材を増やすことだけではなく、改善の共通手法を持った人と、データを扱える人を組み合わせることです。
ここまで見てくると、教育方法の答えもかなり絞られます。最後に、明日から着手しやすい順番を確認します。
最初に何から手をつければいいのか?
小さく始める順番
SCM人材育成を始めるとき、最初から全社横断の大きな学校を作る必要はありません。優先したいのは、一つの経営課題に対して、小さな育成設計を載せることです。
たとえば、在庫偏在が問題なら在庫関連のKPI(重要指標)を一つ決め、その数字に影響が大きい部署をまたぐメンバーを集めます。
そのうえで、基礎知識、データの読み方、改善案の作成までを三か月程度の短い実践にする。これだけでも、研修と実務が分かれにくくなります。
外部データを見ても、企業は育成を後回しにしにくい状況です。世界経済フォーラムの調査では、2025年から2030年にかけて85%の雇用主が人材の能力引き上げを重視すると答えています。技術導入が進むほど、既存人材の学び直しが中心戦略になるという見方です。6
SCMでも事情は同じで、採用だけで足りない分を、社内人材の再教育で埋める発想が欠かせません。
必要なスキルの見極め方
最後に、育成テーマを選ぶときの見方を一つだけ挙げます。スキル名ではなく、変えたい判断から逆算することです。需要予測を上げたいのか、在庫を減らしたいのか、欠品を減らしたいのか、会議を早く終わらせたいのか。変えたい判断が先に決まれば、必要なスキルは自然に絞れます。
SCM人材育成の課題は、人が足りないことだけではありません。何を育てるかが曖昧なまま、教育と事業のあいだに線が引かれていることです。
味の素の事例から学べるのは、全体最適の視点、データ活用、部門横断の推進を一体で育てること、そして教育をKPIから設計することです。ここが定まれば、サプライチェーンマネジメントの人材育成は、研修の話から経営の話へと変わります。
執筆者:補助金フラッシュ 士業編集部
補助金・助成金の活用法からAI導入、業務の生産性向上まで、中小企業の経営に役立つ情報を士業の専門家チームがわかりやすく解説します。
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