中小企業の賃上げを考える。人件費が増えても存続していくには何を変えるべきか?
賃上げは社会的にも求められますが、中小企業の現場では原資が追いつかず、価格転嫁も簡単ではありません。賃上げを続けるには、人件費の増え方を把握し、価格転嫁と生産性の両方で穴を埋める設計が必要です。制度や補助があっても、経営の意思決定そのものを代わりにやってくれるわけではありません。
この記事では、交渉の準備、仕事の絞り方、制度の使いどころを実務目線でまとめます。
賃上げが必要でも原資が足りないのはなぜか?
最近は賃上げの空気が強まり、取引先や求職者からも賃金水準を問われやすくなりました。連合の春闘最終集計(2025年)でも、賃上げ率は比較可能な2013年以降で最高水準と整理されています1。ただ、賃上げ圧力が強まるほど、利益が薄い会社ほど苦しくなりやすい構図も見えてきます。
賃上げ率は高水準でも、労務費は半分しか転嫁できない
見落とされがちですが、国の調査では労務費の転嫁率が50.0%にとどまっています(2025年9月時点)2。転嫁率は、上がったコストのうちどれだけ価格に反映できたかの目安です。たとえば人件費が年100万円増えたのに、価格に反映できたのが50万円なら、残り50万円は利益を削るか、生産性で吸収するしかありません。価格転嫁率そのものも53.5%で、まだ全額転嫁には届いていません2。
ここが賃上げ議論のつらいところです。賃上げは理念として正しくても、原資の設計がない賃上げは続きません。しかも価格交渉ができる雰囲気があるかどうかは取引先次第で、受注側だけの努力で解けない場面も残ります2。次の章では、まず何が増えているのかを分解して、手を打つ場所をはっきりさせます。
賃上げはインフレを招くのか?
賃上げが値上げに転じれば、物価に影響するのは自然です。だからといって、賃上げを止めれば解決するわけでもありません。中小企業の現場では、賃上げ分を価格に十分転嫁できず、むしろ利益が削られて投資も雇用も縮みやすいからです2。賃上げの是非を物価の話に偏らせすぎると、目の前の打ち手が見えなくなります。
大切なのは、賃上げをするかしないかではなく、自社が賃上げ分をどこで回収するかを決めることです。回収のやり方は大きく、価格転嫁で回収するか、生産性で回収するか、その両方で回収するかの三択になります。以降は、この三択を現場の言葉に落としていきます。
人件費が増えたとき、何が増えているのかを分解する
賃上げが難しい会社ほど、賃金だけを見て判断しがちです。しかし、会社が実際に支払っているのは賃金だけではありません。まずは人件費を賃金と同義にしないところから始めると、対策が具体的になります。ここでいう人件費は、賃金に加えて、会社負担の社会保険料、採用や教育の費用、残業が増えた場合の割増賃金などをまとめた総額です。
賃金を上げると社会保険料も連動して増える
代表例が社会保険料です。厚生年金保険料は給与や賞与に保険料率を掛けて計算され、事業主と従業員が半分ずつ負担します3。賃金を上げれば、会社負担分も同時に増えます。賃上げを検討するときは、給与の増額だけでなく、社会保険料の増加も含めた会社の追加負担を先に見積もると、後から慌てにくくなります。
さらに、採用難の局面では採用広告費や紹介料、教育にかける時間も増えます。これらは会計上の科目が散らばるため、合算して見ないと実態がつかめません。まずは直近12か月の人に関する支出を集計し、賃上げでどこが連動して増えるのかを見える化すると、次の一手が決めやすくなります。
建設業は労務単価の前提を押さえておく
建設業のように外注比率が高い業種では、賃上げの話が単価の話と直結します。国土交通省は公共工事設計労務単価を令和7年3月から適用し、全国平均で前年度比6.0%引き上げと公表しています4。同じ発表の中で、労務単価には事業主が負担すべき必要経費分が含まれない点も明記されています4。単価を見ただけでこれなら賃上げできると判断すると、実際の負担との差で苦しくなることがあります。
下請側は、法定福利費など賃金以外のコストがあることを前提に、見積書や内訳の作り方を変える必要があります。たとえば、労務費の上昇分をどの作業、どの人数、どの期間に影響しているかまで落とすと、交渉の論点が具体化します。ここまでが整理できると、次は価格転嫁の交渉に移れます。
価格転嫁を進めるとき、まず何を整えるか?
価格転嫁は、勇気だけで押し切る交渉ではありません。準備を整えるほど合意を取りやすくなり、取引関係も壊れにくくなります。公正取引委員会は、労務費の転嫁を進めるための交渉の考え方を指針としてまとめ、申込み様式(例)も公開しています5。
指針をそのまま交渉の台本にする
指針の要点を中小企業目線に言い換えると、交渉は根拠を示す、協議の場を持つ、申し入れを理由に不利益な扱いをしないという流れになります5。現場では、いつ切り出すかも重要で、価格交渉促進月間が3月と9月に設定されているのは、価格改定を4月と10月に行う企業が多いという事情があります2。賃金改定の前に、次の改定時期を取引先と握っておくと、転嫁が通りやすくなります。
値上げだけが答えではない、仕様を変えて利益を守る
それでも、値上げのお願いが通りにくい取引は残ります。そんなときは、値上げ一本にせず、仕様の見直しで原価を落とす選択肢も同時に出す方が、相手の合意を取りやすいです。実務で使いやすいのは、次のような提案です。
- 納期を標準化し、急ぎ対応は追加料金にする
- 発注頻度をまとめ、配送や現場手配の回数を減らす
- 見積の標準メニューを作り、例外対応は別料金にする
- 品質基準や検査方法を文書化し、手戻りを減らす
賃上げの原資を作るには、単価そのものを上げるか、同じ売上でも手間を減らすかのどちらかが必要です。仕様の見直しは、後者を取りにいく方法です。次の章では、その手間を減らすを、粗利と工数の視点で具体化します。
生産性を上げると言う前に、やめる仕事を決める
生産性という言葉は便利ですが、現場では抽象的になりがちです。中小企業白書でも、適切な価格設定や経営計画の策定などの経営力が、業績向上や賃上げや投資を後押しすると整理されています6。言い換えると、賃上げは頑張るより、仕事の選び方とやり方の見直しで近づきます。
原資は売上ではなく、粗利と工数で考える
賃上げの原資を作るとき、売上だけを追うと迷子になります。見るべきは粗利と工数です。たとえば粗利が同じでも、手間が2倍なら、人件費の上昇局面では苦しくなります。逆に、粗利は少し減っても、手間が大きく減れば、残る利益は増えます。まずは主要な商品やサービスを、粗利と作業時間で並べるところから始めると、打ち手が見えます。
ここで役立つのが、仕事を三つに分ける発想です。値上げが通る仕事、仕様変更で手間を減らせる仕事、どちらも難しい仕事です。最後の仕事は続ける理由を言語化し、理由が弱いなら縮小や撤退も選択肢に入れます。冒頭で触れた会社をどう生かすかという問いは、この場面で重要になります。
設備投資は助成金とセットで前倒しする
手間を減らす施策は、結局は投資が絡みます。そこで選択肢になるのが、業務改善助成金です。これは生産性向上に資する設備投資などを行い、事業場内最低賃金を一定額以上引き上げた場合に、費用の一部を助成する制度として整理されています7。要件や上限は年度で変わり得るため、申請前に最新の要綱やリーフレットを確認してください7。
制度を使うときのコツは、投資と賃上げをバラバラに計画しないことです。たとえば機械設備の導入で段取り時間が減る見込みがあるなら、その分を賃上げ原資に回す計画にする。教育訓練で多能工化が進むなら、残業の削減とセットで見込む。助成金は魔法ではありませんが、投資の回収を早める効果は期待できます。
賃上げを会社の約束にするために、決め方を整える
賃上げの議論は、価格転嫁や生産性だけでは終わりません。従業員にとっては生活の話であり、会社にとっては継続の話です。SNSでは「国は支援する。でも経営者が変わらない会社までは救えない」という声もありますが、現実には支援と自助の両方が必要です。制度が整っても、賃上げの優先順位や資金配分を決めるのは、経営の仕事だからです6。
固定給だけで決めない、総額とルールを先に決める
賃上げを続けるなら、まず人件費の総額の上限を決め、その中で配分ルールを作る方が安全です。固定給を一律に上げると、売上が落ちたときに戻せません。そこで、固定給は守る部分に絞り、成果や役割に応じた部分を賞与や手当で設計するのが現実的です。採用が特に難しい職種だけ先に手当を厚くする、といった優先順位の付け方もあります。
もう一つ大事なのは説明です。賃上げの原資が価格転嫁と投資であること、投資のために何の仕事を減らすのかを共有すると、現場の協力が得やすくなります。賃上げを受け身で受け取るものにせず、会社の戦略として語れる状態を作ることが、結果的に人材の定着にも役立ちます6。
税制を使いながら、無理のない賃上げ計画に落とす
税制面では、中小企業向け賃上げ促進税制があります。一定の要件を満たして前年度より給与等の支給額を増やした場合、増加額の一部を法人税などから税額控除できる仕組みです8。対象期間や要件が明示されているため、賃上げ計画を立てる段階で、どの年度に、どの増加額を狙うかを考えると、資金繰りの見通しが立ちやすくなります8。
ただし、税制も助成金も、賃上げの後押しにはなっても、原資そのものにはなりません。最後は、①人件費を分解して増え方を把握する、②価格転嫁の交渉材料を整える、③仕事の取捨選択と投資で工数を減らす、の三つを同時に回す必要があります。明日から始めるなら、次の三つだけに絞ると動きやすいです。
- 直近12か月の人件費を賃金、社会保険料、採用関連費に分けて集計する
- 主要取引先ごとに、コスト上昇の根拠資料と交渉の希望時期を用意する
- 粗利と工数で仕事を棚卸しし、縮小する仕事と投資する仕事を決める
賃上げは、会社が強いときだけの施策ではありません。厳しいときほど、原資の作り方を仕組みにすることが、会社と従業員の両方を守ります。
連合の春闘最終集計(2025年7月3日公表)をもとに、賃上げ率が全体で比較可能な2013年以降の最高水準と示している。厚生労働省(2025年7月3日) ↩
中小企業庁が受注側中小企業30万社を対象に行った調査結果。2025年9月時点で価格転嫁率53.5%、労務費の転嫁率50.0%などが示されている。経済産業省(2025年12月2日更新) ↩
厚生年金保険料は給与と賞与に保険料率を掛けて計算し、事業主と被保険者が半分ずつ負担することを説明している。日本年金機構(2024年8月9日更新) ↩
公共工事設計労務単価が令和7年3月から適用となり、全国全職種単純平均で前年度比6.0%引き上げとしたことを公表している。労務単価に事業主負担分が含まれない点にも触れている。国土交通省(2025年2月14日) ↩
労務費の転嫁を進めるため、発注者・受注者が取るべき行動や交渉の考え方を整理した指針。価格交渉の申込み様式(例)も公開されている。内閣官房、公正取引委員会(2026年1月1日改正) ↩
2025年版中小企業白書・小規模企業白書の概要として、経営計画や適切な価格設定などの経営力が業績向上や賃上げ・投資の促進に関係すると整理している。経済産業省(2025年4月25日) ↩
生産性向上のための設備投資等と事業場内最低賃金の一定額以上の引上げをセットにした助成制度として、費用の一部を助成する仕組みを説明している。厚生労働省 ↩
中小企業向け賃上げ促進税制の概要。前年度より給与等支給額を増やした場合に増加額の一部を法人税などから税額控除できることを説明している。中小企業庁(2024年9月20日更新) ↩
執筆者:補助金フラッシュ 士業編集部
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